深い河を読んでいます
こんにちは,みっくんです.9月最初の連休はいっぱい運動をして筋肉痛がすごいです.
今回は,
そもそも,なぜこの本を読もうと思ったかというと,宇多田ヒカルの”Deep River”が本作品にインスパイアされて作成されたことを知ったからです.
素晴らしい曲だし,本の方も気になる〜〜と思っていたところに片道電車で2時間の遠出の機会があったのでどんどん読んでいきました
あらすじ
舞台は1980年代のインドのヴァラナシ(ヒンズー教の聖地).何かしらのものを求めにツアーに参加した人(1〜4)と住み着いている人(5)の以下の5人の主人公を中心に展開します.
- 亡くした妻の生れ変りを探している男性(磯辺)
- 愛というものを抱けないことを自覚し,「愛の真似事」を続けている女性(成瀬)
- 動物との深い繋がりを信じて疑わない男性(沼田)
- インパール作戦から生還してかつての戦場で戦友の法要を行いたい男性(木口)
- 日本人的価値観をキリスト教的価値観と融和させようとするあまり教会から異端視される神父(大津)
ちなみに作者はキリスト教徒ですが,登場する日本人のほとんど(主人公5以外)は”典型的”な日本人(無宗教)です.この五人のそれまでの人生が中盤まででそれぞれ描写されて,ヴァラナシで五人の主人公が一つに交差します.果たしてそれぞれの失くしているものを見つけ出すことができるのでしょうか??
タイトルの意味
タイトルの「深い河」,これには複数の意味が込められていると考えられます.
遠藤周作氏はこの作品を黒人霊歌「深き河(Deep River)」をもとに執筆しており,本文冒頭にも登場しています.
- 個々人の人生
人生は旅だ,などとよく言われますが,今作の中では人生はより受動的な(目には見えない力によってそうさせられている)ものとして描写されています.
また,本文中で全ての人が河につつまれ,それがキリストの博愛と同質のものであることが言及されています.
主人公たちはガンジス川に惹かれます.作中ではインド人にとってそこで死ぬことによって輪廻から解脱することができる転生の河,あるいは醜悪で苦痛に喘ぎながらも人々に恵みを与えているインド(アジア)的な聖母の象徴として清純な欧米のキリスト教聖母に対する対比として描写されています.一方で,この醜悪さや苦痛に満ちたさまはキリストとの共通点として強調されていて,後に述べる「宗教の相対化」の主張を補強しているものであると考えられます.
また,ガンジス川は個々人の人生としての河の合流点であるとも解釈できます.第一に,五人の主人公たちがヴァラナシの地に一同に集っていること.第二に,ヒンドゥー教の聖地として死者を次の世に運ぶという役割(貴賎にかかわらずヒンドゥー教徒は死の間際にガンジス川にきて死ぬことを切望すると描写されている).これをさらに一般化させて,人種、宗教問わずあらゆる人間を包み運んで行く河であることが描写されています.
上を踏まえると,このガンジス川が「どんな人間であろうと受け入れる」作者のキリスト教観と合致しており,河とキリスト教的な愛の同質性を補強しています.
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宗教
本作品の最大のテーマであると考えられます.個人に対する宗教(あるいはガンジス川)と同様のものが宗教にも存在しているはずであるということが主張されています.
主人公5が作者のキリスト教観の代弁者・実践者なのですが,彼は「キリスト教の中にのみ神はあるのではなく,他の宗教の中にも神はいるはずだ」と主張します.その後たどり着いたインドでガンジーの「様々な宗教は同じ神から発しており,同一の地点に収束する道であるゆえに,異なる道であろうと構わない」という思想と共鳴することで,宗教は(現在はそれぞれが自身を絶対視しているが実は)相対化し、対話することができるはずのものであると主張していることがわかります.
この主張は上2項と主人公5の行為によって補強されますが,最終的にそのように相対化された宗教が現在において無力である(相対化という考えが布教され広められる必要がある)という結論に至るところで本作品は終了しています.
その点で本作品は価値観の相対化や多様性に対する祈りなのかもしれませんね.
最後に
文章の構成がめちゃめちゃ練られていて精読がめちゃめちゃ楽しかった...
↓宇多田ヒカルが本作からインスパイアを受けて作成したアルバム.名盤です.